布施駅から歩いて5分。ネオンと旗が迎えてくれる、ちょっとだけ異国の入り口。
釜山出身のママが切り盛りする韓国料理「チング」は、派手でもない、流行りでもない、でもなぜか身体が覚えてる味がある。
鉄鍋の音も、チヂミの匂いも、おかずの小皿も。
ふらっと立ち寄った人が、なぜか“ただいま”と言ってしまう場所。気がつけば15年。まちは、この店の味と笑い声と一緒に、ちょっとずつ息づいている。
韓国の横丁が、布施に降りてきた夜
布施駅の改札を出て、アーケードの喧騒を抜けると、不意に赤いネオンが視界に飛び込んでくる。「チング」と書かれた看板、その下には、手書きの黒板メニュー。そして、メニュー名の書かれた色とりどりの旗が風に揺れている。まるで釜山の裏通りに紛れ込んだような気分になる。
この街に来て6年。鶴橋では9年、その前は韓国で20年。あわせて35年以上、料理と生きてきたママ・金 美蘭(きん みらん)さんが、この店の“柱”だ。
一見すると派手な外観。でも、お店の中に入ると広がるのは、どこか懐かしくてやさしい空気。
ママは今日も、鉄鍋の前で手を止めない。
壁一面の写真から、夜ごはんを選ぶ贅沢
「どれも美味しいよ」
そう笑いながら、ママは厨房の奥でエプロンを結ぶ。
店内の壁には、ズラリと料理の写真が貼られている。どれもが主役級に美味しそうで、むしろヒントにならない。
定番の海鮮、チーズ、季節のおすすめのレンコン、タコ、そしてちょっと意外なトマトチーズ。並べてみれば不思議な顔ぶれだけど、どれもチヂミになるとちゃんと“ママの味”になるから面白い。季節や気分で変わるこの5種を、今日は何にしようかと迷う時間も、すでにごちそうだ。
鍋料理も豊富で、チゲ鍋、テールスープ、参鶏湯と、体を芯からあたためてくれるメニューが並ぶ。
そして、夏のある日。テーブルに届くのが「サンナクチ(生ダコの踊り食い)」。
細く動く脚に一瞬たじろぎながらも、一口食べればそのコリコリとした食感に、ごま油の香ばしさと唐辛子のピリ辛が絶妙に絡み合う。
釜山育ちのママだからこそ出せる、あのパンチの効いた味。
あのコリコリとした歯ごたえと、ごま油の香ばしさ。口の中に残る辛ささえ、クセになる。
“ママのおかず”が教えてくれる家庭の味
料理が出てくる前に、まずテーブルに運ばれてくるのが、“ママのおかず”4種。
ナムル、チャンジャ、そして、特製キムチ。
どれも少しずつ、でもひと口ごとにきちんと手間が伝わってくる。なかでも人気なのが、海鮮エキスを使ったキムチ。口に入れた瞬間、旨みと辛さがふわっと広がる。
あまりの美味しさに、キムチだけを買って帰る常連も少なくない。
「手間かかるけどね、うちの味はこれやから」
ママがそう言って笑う。その笑顔が、この店の味の秘密かもしれない。
日本の調味料と出会って、またひとつ深くなった
「私、くる人みんなに言うけど、日本の醤油は本当に美味しいのよ」
そう話すママの目は、ちょっと嬉しそうだった。
長年育ててきた韓国の味に、日本の旨味を少しずつ重ねていくことで、「チング」の料理はここにしかない深みを持つようになった。まろやかで、コクがあって、でもどこかやさしい。そんな味わいは、土地に寄り添ってきた証かもしれない。
ただいまと言いたくなる、第二の食卓
「シャチョー、今日も大盛況ね。笑」
少しカタコトで、どこか関西弁が混ざったその声は、耳に心地よくて、不思議とほっとする。
料理を出すだけじゃない。ママは、ちゃんとテーブル席まで足を運んで、お客さん一人ひとりに声をかけてくれる。
「おねえさん〜、今日はいっぱい食べなあかんよ」
そんな言葉に、つい笑ってしまう。
誰に対しても自然体で、声をかけるのがうまい。
おしゃべり好きの親戚のような。そんな空気が、この店には流れている。
キッチンではスタッフが座って談笑していたり、ふと目をやると、壁にはママと母親の写真が飾られていたり。
あちこちに散らばる“気づかい”や“ぬくもり”が、この店の居心地をつくっている。
「チング=友だち」。
この店名には、日本人も韓国人も関係なく、対等に仲良くなれる場所であってほしいという想いが込められている。
チングという名の、まちの交差点
東大阪・布施。大阪市生野区と隣り合い、在日コリアン文化が息づくこのまちで、「チング」は誰にでも開かれた食堂として根づいている。
「まいど」と「アンニョン」が、自然と飛び交う食卓。
料理と一緒に交わされる言葉や笑い声が、まちにやさしくしみこんでいく。
観光でもなく、特別でもない、でも誰かにとっての“日常”がここにはある。
ここは、韓国料理店であり、文化の交差点であり、人のあたたかさが詰まった“布施らしい場所”。
今日もまた、赤いネオンが、誰かの帰り道を照らしている。