商店街のアーケードを抜けた先、ガラス越しにふわりと浮かぶ不思議な世界。
ロンT、キャップ、マットまでもが“妖怪”というこの店、「ビリビリモンスター」は、派手なのにどこか品があって、ふざけているようで妙に奥ゆかしい。
こわいような、でも笑ってしまうような。そんな“あいまい”が、布施という町にはよく似合う。
妖怪たちは今日も、まちのすき間にふっと現れて、ビリビリっと、感覚をくすぐってくる。
ガラスのむこうに、何かがいる気がした
布施駅から本町通商店街をふらり。にぎわいを抜けて少し脇道にそれると、静かに光るショーウィンドウがある。中をのぞくと、なにやら色とりどりの“顔”がずらり。キャップにロンT、そして壁いっぱいのマットたち。全部、妖怪。
ここは「ビリビリモンスター」。妖怪をテーマにした、ちょっと不思議なコンセプトショップ。かわいいけど、ちょっとこわい。軽いようで、じんわりと重みがある。すべてが“ちょうどよく”まざっている。
昔話は、まだ息をしているかもしれない
この店が布施にある理由を考えていたら、ふと、昔聞いた話を思い出す。
たとえば枚岡神社に伝わる「姥が火(うばがび)」。灯明の油を盗んだ老婆の霊が、雨の夜に火の玉となって空を舞う——そんな伝承が、今もこの土地には静かに残っている。
「信じる・信じない」ではなくて、「そういう気配がある」と思わせてくれる空気。ビリビリモンスターが、この町にすんなり馴染んでいるのは、きっとそのせいだ。妖怪は“昔話”じゃなく、今もこの町の隅に生きているのかもしれない。
気配をすくって、絵にする。
この店を営むのは、オーナーのぎんさん。彫師でもある彼は全身にタトゥーをまとい、初めて会う人は思わず身構えてしまうかもしれない。でも、口を開けばその印象は一変する。おだやかで、やさしくて、ときどき広島訛りがふっと混ざる話し方。言葉に込められた熱量は、静かに、でも確かに伝わってくる。
「日本人って、昔から“擬人化”のセンスがあると思うんです。文明が進んでも、目に見えないものに名前をつけて、かたちにして残そうとする。それが妖怪文化の根っこにある気がします」
たしかに、妖怪はただのキャラクターじゃない。
人のクセや記憶をまとった“誰か”のようで、ぎんさんの作品にも、そんな温度が静かに漂っている。
古い伝承に、いまの色を塗る——。そんな感覚が、この店のアートスタイルをかたちづくっている。目の覚めるようなビビッドカラーで描かれた妖怪たちは、一見ポップ。でもその奥では、静かに、そしてしぶとく、物語が息をしている。
かわいくて、ちょっとこわい。でも愛おしい。
壁いっぱいのマットたちは、とにかくにぎやか。でも、押しつけがましさがない。目が三つあったり、舌を出していたり。でもそれが、なんだか人間くさくて、親しみがわいてくる。
「妖怪って、怖い存在だったよな」——そんなイメージを、いつのまにかひっくり返してくれる。目が合った瞬間に、ふふっと笑ってしまう。ちょっとこわくて、なんか愛おしい。そんな感情のグラデーションが、この空間にはちゃんと息づいている。
“うちの子”をつくってみる
予約すれば、タフティング体験もできる。毛糸を専用のガンで打ち込んでいく本格的なマット制作は、初心者でも気軽に楽しめる。
もちろん、モチーフは妖怪。自分だけの“ひとつ目”や“ぬりかべ”をデザインしてつくる過程は、なんとも言えずたのしい。完成品を前にすると、「これ、うちの子」って言いたくなる。そんな不思議な愛着が残る。
まちのあちこちに、妖怪の気配
この店だけが“異界”じゃない。布施のまち全体が、少しずつ妖怪と共存している。
たとえば赤い自販機。実はこれ、妖怪に変身した店舗オーナーの姿。ガチャを回すと、小さなフィギュアや商品券が出てくる。遊び心と商売が、無理なく結びついていて、なんだかいい。
通りすがりの子どもも、観光じゃない地元のおじいちゃんも、同じように立ち止まってしまう。それが、この町の自然なリズム。
妖怪たちが、まちを歩く日
そして、年に一度。布施の商店街に“新しい妖怪”たちがあらわれる。
京都芸術大学の教授たちが手がけた創作妖怪たちが、そろりそろりと行進していく。どこかあやしくて、でもユーモラス。現実と空想の境界が、曖昧になっていく。
その日、町はちょっと浮かれて、でもいつも通りでもある。妖怪が特別じゃなく、“共にいる存在”として描かれていく時間。
ふしぎで、こわくて、でもすごく身近
ビリビリモンスターの妖怪たちは、どこか懐かしい。誰かを笑わせて、ちょっとびっくりさせて、それでもちゃんと日常に居場所がある。
ふしぎで、ちょっとこわくて、なんか愛おしい。
そんな妖怪たちがそっと寄り添う町、布施。
今日もまた、どこかでガラスの向こうから、こちらを見ているかもしれない。