大阪といえば、粉もん。
でも、あの鉄鍋でじゅっと焼かれる肉の音も、大阪の音なのかもしれない。
布施のまちで70年以上、肉と向き合ってきた老舗「やまじん」。
その肉屋が営むお食事処「甚(じん)」では、ちゃんとした日にも、ふだんの夜にも似合うすき焼きが食べられる。
観光の“グルメ”じゃない、生活に寄り添う一膳。
夜の街を歩きながら、そんなごちそうに会いに行ってみる。
裏路地に灯る、知る人ぞ知る暖簾
布施駅から続く商店街。にぎやかな通りを抜けて、ふと路地へ折れる。
提灯も大きな看板もないけれど、暖簾の向こうから、じわりと香ばしい匂いが漂ってくる。
ここ「甚(じん)」は、昭和28年創業の老舗肉屋「やまじん」が営むお食事処。
地元ではちょっと“いい日”に選ばれる場所だ。法事や家族の集まり、親しい誰かとの再会の夜。そんなときに、ふと思い出される店。
カウンターには10席。目の前では、大将の手捌きが静かに舞う。奥には、10名ほど入れる個室がひとつ。
かしこまりすぎず、だけど背筋は少し伸びる、そんなちょうどいい空気が流れている。
主役は、霜降りの「すき焼き」
「甚」に来たら、やっぱり頼みたいのは「すき焼きコース(4,000円)」。大きな皿に、艶やかな霜降り牛。赤身と脂のグラデーションが、もうご馳走そのものだ。
鍋の前に立つのは、自分自身。肉を焼くのも、割下を注ぐのも、お客の手で。もちろん、困ったときは女将さんがそっと寄り添ってくれるけれど、基本は“セルフ”のスタイル。
気の置けない人と、好きな順番で、好きなペースで。そんな自由さが、この店にはちゃんと用意されている。
割下で味が決まるスタイルなのも、「誰が焼いても、ちゃんとおいしくなるように」という想いから。
口に入れた瞬間、甘辛のたれと脂の旨みがふわっと溶けて、思わず目を閉じてしまう。
すき焼きって、こんなにも静かに人を幸せにできるのかと、改めて思わされる。
肉の町・大阪の、もうひとつの顔
大阪と聞いて思い浮かべるのは、たこ焼き? お好み焼き?
それもいいけど、ほんの少しだけ、足りてない。実は大阪の南部、とくに東大阪は、古くから肉の流通が盛んなエリアだった。
問屋や加工業者が多く、いわば“肉のまち”。そんな土地で、70年以上肉と向き合ってきた「やまじん」は、地元の台所のような存在だ。
すき焼きに使われるのは、脂がきめ細かく、火を入れてもパサつかない部位だけ。
仕入れもカットも、火入れも。「肉屋の目利き」が隅々まで効いているから、食べ終わるころには胃よりも心が満たされている。
「変わらないこと」が、町の誇りになる
「やまじん」がこの町に暖簾を掲げたのは、昭和28年。商店街の人たちの食卓に、ずっと肉を届けてきた。
その中で生まれた「甚」は、ただの食事処ではない。肉を知り尽くした人たちが、“一番おいしい食べ方”を届けたいと思ってつくった場所。
変わり続けるまちで、変わらないものがあるというのは、少し心強い。
誰かの記念日や、久しぶりの再会を、ちゃんと彩ってくれる場所。たとえば自分の子どもが大きくなったとき、「あのすき焼き、また食べに行こう」と言いたくなるような。
旅の夜に、ひとつだけ贅沢を
「大阪に来たら、なに食べよう?」
そう聞かれたら、たこ焼きでも串カツでもなく、「すき焼き」と答えたくなる。
粉もんの香ばしさの向こうに、もうひとつの“大阪の味”がある。
観光地の賑わいから少し離れた布施のまちで、肉を焼く音に耳を澄ます夜。じゅわっと広がる甘辛さと、口の中でとろけるやさしさ。
その一膳に、何度でも恋してしまうかもしれない。