東大阪・布施の町に、78年(2025年現在)。
自家焙煎のコーヒー豆専門店「鶴屋」には、今日も静かな湯気が立っている。
豆の焼ける匂い、焙煎機の響き、常連の一言二言。そのすべてが、日々を編んでいく生活のリズムだ。
そして、もうひとつの季節の気配——冷やし飴の瓶が、そっと夏の入口を知らせてくれる。派手じゃないけれど、じんわり沁みる味。ここには、変わらないものの強さと、やさしさが詰まっている。
焼け跡からはじまった、静かな日常
戦後の焼け跡の中に芽吹いた、小さな焙煎所。
「鶴屋」がこの町で最初に火を入れたのは、いまから78年前(2025年現在)。焼け野原になった大阪・布施の町に、少しずつ日常が戻ってくる中で、この店のコーヒーもまた、暮らしの一部になっていった。
創業者は、豆の目利きも、焙煎の知識もないところからのスタートだったという。けれど、「おいしい一杯が、誰かの一日をちょっとだけよくするかもしれない」と思いながら、豆と向き合ってきた。
いまも店に立つのは、その息子にあたる2代目。商売っ気よりも誠実さがにじむ、やわらかな物腰に、どこか大阪らしい気取りのなさが宿っている。
焙煎機は、今日も変わらずに火を入れる
鶴屋の朝は、8時の焙煎機のスイッチから始まる。
ガチャンとレバーが動く音。豆が弾ける軽やかな音。そして、香ばしい匂い。
小さな焙煎所だけど、工場というよりは、どこか町の“台所”に近い空気感がある。
毎日2〜3キロだけ、少量ずつ焼く。効率は良くないけれど、そのぶん豆の状態に細かく目が届く。深煎りも浅煎りも、酸味もコクも、それぞれに“ちょうどよさ”を探しながら火を入れていく。
コーヒーは嗜好品。人によって「ちょうどいい」は違う。
だからこそ、鶴屋では常時 10〜 12種類の豆をそろえ、香りと味のバリエーションを大事にしている。
週に一度、決まった時間に来て350gの豆を買っていく常連さん。言葉少なに手渡される豆袋が、いつしか生活の風景の一部になっている。
やさしさでできた、オリジナルブレンド
「とりあえず迷ったら、これを飲んでみて」とすすめられるのが、鶴屋の「オリジナルブレンド」。
ブラジル、コロンビア、モカ。定番の組み合わせだけれど、絶妙なバランスで配合されている。
飲み口は、やわらかい苦味と、ほんのりとした甘み。酸味は控えめで、すっと身体になじむような余韻が残る。
朝の始まりにも、午後の息抜きにも、食後の締めにも似合う。
どこか“いつでも飲める”安心感がある、そんな味だ。
焙煎したてを、100gずつ真空パックで販売。旅の途中でふらりと寄って、自分用に買って帰る人もいれば、誰かへの贈りものに選ぶ人もいる。
気取らないけれど、ちゃんと嬉しい。そんな豆だ。
冷やし飴が運んでくる、大阪の夏
店の棚に、ひときわ目を引くガラス瓶が並ぶ。
その中には、とろんとした琥珀色の液体。麦芽水飴と生姜を合わせた、「冷やし飴」だ。
大阪の夏にかかせない、この昔ながらの飲みもの。
水や炭酸で割るだけで、素朴な甘さと、ピリッとすっきりした生姜の香りがふわりと立ちのぼる。
どこか懐かしくて、でも今の季節にもちゃんとフィットする。
「昔、駄菓子屋で飲んだことがある」
「おばあちゃんがよく作ってくれた」
そんな声が、自然とこぼれる味だ。
SEKAI HOTELのカフェでも、この冷やし飴のシロップを使った「ひやしあめ」や「冷やし飴ソーダ」を提供している。
ガラスのコップに注がれたその一杯が、布施の夏をやさしく運んでくれる。
変わらないのは、「暮らしのそばにある」ということ
派手な看板もない。SNSでバズるような華やかさもない。
でも、鶴屋には、確かな時間と空気が流れている。
焙煎機の音と香り。常連とのさりげない会話。棚に並んだ、季節を運ぶ瓶たち。
どれもが、この町でずっと続いてきた“生活のひとコマ”だ。
一杯のコーヒーが、今日の気分をちょっと変えてくれることがある。
ひとくちの冷やし飴が、昔の記憶をそっとよみがえらせることがある。
鶴屋にあるのは、そんな小さな魔法だ。
ここでふと立ち止まり、香りに包まれる時間。
それが、大阪の夏の新しい風景になっていくのかもしれない。