ネオンのざわめきが途切れた先に、ふわりと浮かぶ白い提灯。大阪・布施の夜、その灯りに導かれるように暖簾をくぐると、揚げ物と白ごはんの匂いが迎えてくれる。
ヒットチャートとまな板の音。話すでもなく、黙るでもない。その中間にある、ちょうどいい空気。あの“深夜食堂”を地でいってる。でも演出じゃない、ほんものの空気。今日も静かに、誰かの夜を受け止めている。
白い提灯が灯るころ
深夜0時前。ネオンがちらつく布施の飲み屋街を抜けたあたりで、白い提灯がふわりと風に揺れていた。暖簾をくぐると、すでに揚げ物の香りと湯気が迎えてくれる。
店内に響くのは、懐かしいヒットチャートとまな板の音。誰かが話していても、誰も無理には聞かない。そんな空気が、ここの“日常”として息づいている。
この店を切り盛りするのは、東京出身のマスター・たくやさん。
調理中は多くを語らないが、その背中には、見慣れたあのロゴをあしらった「深夜食堂」のオリジナルTシャツ。気さくな雰囲気をまとってはいるけれど、話しかけすぎることはない。
「飲食の仕事はずっとやってて。気がついたら布施に流れ着いてました」そう言って笑う声には、肩肘の張らない大人の余裕がある。
おせっかいでもなく、説教でもない。ただ静かに耳を傾けてくれる、聞き上手な夜の番人。大阪らしい“おっちゃん感”はあまりない。でも、この距離感が、大阪に越してきた私にとってはちょうどよかった。
深夜にしみる定食
いちばん人気は、ヒレカツ定食。
注文が入ってから揚げる3枚のカツは、サクッと軽く、口に運べばやわらかい肉汁がじゅっと広がる。甘辛いソースをたっぷりかけて、脇にはもりもりのレタス。炊き立ての白ごはん、そして生卵がとろりと浮かぶ味噌汁。
深夜の胃袋に、こんなに優しく届く定食があるなんて──そんな驚きと安堵が、ひとくちごとに広がっていく。
厨房を囲むL字のカウンター。その一角には、今日のおかずが静かに並んでいる。ナスの煮浸し、揚げたてのハムカツ、茹でたブロッコリー。
どれも奇をてらっていないけれど、どこか懐かしい。湯気の向こうに見えるのは、なんてことのない家庭の夕食みたいな風景だ。
締めに頼む人が多いのは、お茶碗一杯のごはんに出汁をかけた、あつあつのお茶漬け。さらさらと喉を通ったあと、ふっと身体がゆるむ。疲れていたことに、ここでようやく気づく。そんな瞬間が、音もなく訪れる。
語らないけれど、伝わるもの
マスターは、必要以上の言葉を持たない。でも、ぽつんと漏れた独り言に、ふっと自然なタイミングで返ってくる言葉がある。重すぎず、軽すぎず。必要な分だけ、そこにある。
誰かに話を聞いてほしいわけじゃない。ただ、安心して黙っていたい。そんな夜には、ちょうどいい。
「また来ますわ」と口に出さなくても、気づけば数日後にはまたこの暖簾をくぐっている。それはきっと、料理の味だけじゃなく、この店に流れるやわらかな“空気”のせいかもしれない。
「深夜食堂」は、今夜も誰かを受け止めている
布施の夜も、少しずつ変わっていく。新しい店ができては消え、看板の色も少しずつ入れ替わる。でも、この白い提灯は、変わらずそこにある。
決して派手じゃないけれど、必要な人にはきちんと見える灯り。「おかえり」とは言わないけれど、「おるで」とでも言いたげに。今日もふわりと、夜の街角に浮かんでいる。
ひとりでも、二人でも。言葉があっても、なくても。この白い提灯の下では、誰もが同じように、ごはんを食べて、静かに過ごしている。
「特別なことは、なにもないですけどね」マスターのそんな一言が、妙に沁みた夜だった。
布施の夜。小さな提灯の下に、今日もひとり分のごはんが待っている。あの「深夜食堂」のようでいて、たしかにここだけの、夜の居場所。
今夜もまた、その灯りが誰かの足を止めている。